2012年11月17日
海図の世界史

「海上の道」が歴史を変えた
宮崎正勝 新潮選書
非常にもったいない本。興味深いテーマで幅広い資料、客観的な視点と素人が読むには最高の一冊。だが、編集が今一つ・・・。何度も話が前後しているしページが限られているとはいえ、海図の話なのに図も少なすぎる、なにより編集方針が海図なのかそこから派生する歴史なのか揺れている(中世欧州が厚くなるのは仕方がない)。だから読むのは少し面倒
クローブをチョウジと書いてあるし、ニクズクとはナツメグのこと?
まず、地中海世界(第一の世界)の視点からと断ったうえで、南北アメリカを(第二の世界)、東アジア・太平洋を第三の世界として、第一の世界と結び付けられ「世界地図」が完成されていったという視座
科学技術、文化という点でも中世以前はイスラーム、中華圏が欧州を圧倒する部分もあったろうが、なぜ欧州が世界を統合することになったのか?背後にあるプレスタージョンの伝説や、金・銀への欲望など
当時人口100万、慢性的な食糧不足に悩むポルトガルのエンリケ航海王子が海図の重要性をまず認識し、収集管理によって海上帝国を作り上げた
それにスペインが続きコンキスタスタドールたちが天然痘の力もあって南米支配を確立し、アフリカから奴隷を送り込みプランテーションの経営をはじめ、大量の砂糖、そして掘り出した銀をヨーロッパに送り込み経済がグローバル化に向かう
しかし、やがて造船力が蓄積されていたオランダが17世紀を支配し、さらに18世紀には国力で勝るイギリスが世界をつなぎ、綿布の生産など産業革命もあって一気に世界的な覇権を確立
そしてアメリカの独立
この流れは世界史でも通るものだが、やはり面白いのは、その過程のサイドストーリーだ
・プレスタージョンの伝説と、プトレマイオスの地図。結果として「ガセ」だったこの2つの「情報」が欧州人を未知なる外洋へと導いたという事実。ビザンチンの文化を吸収したアラビア世界のほうがずっと科学的だったはずだが、科学的ゆえに未知の世界には無謀な挑戦はしなかったのか?羅針盤を開発した中国ですら結局は鄭和のアフリカの東海岸止まりだし。日本に至っては与那国から見える台湾どころか、本州から見える北海道にすら十分に足を延ばしていないことを考えると「情報」の力の大きさを思い知る
「ランス・オ・メドー」を残したヴァイキングも、もう少しインセンティブがあれば定着していたか?
・バルトロメウディアスも参加したポルトガルのカブラル船団(1500年。資金は主にイタリア商人)は喜望峰を目指すルート開拓の過程で風を求めるうちにブラジルを発見しているが、巨大な島だと誤認した。コロンブスのカリブ海到着は1942年の航海。マゼランの南米大陸確認は1519年の航海
・ポルトガルとスペイン、いずれもヴェネチアなどイタリアから海図職人や航海士を招へいし(コロンブス・アメリゴともにイタリア人)て国営(王室の管理下)で貿易をおこなっていたが、それに取って代わったのは民営(東インド会社の商人)貿易のオランダ
・カリブ海で大量に生産された「砂糖」。最初は贅沢な嗜好品→調味料となり、やがて砂糖は消費を求めてコーヒーや紅茶と出会い(逆かもあり?)、ケーキや菓子類にも入っていく。「砂糖が資本主義経済を生んだ」という見方も確かに一側面を表している
・もともとはスペイン(ハップスブルグ家)配下だったオランダが、宗主国であるスペインを圧倒した背景にはニシン漁の経験に基づく造船力と荒れた海を恐れぬ船乗りたちがいたこと
・フェルメールが残した単身の男の絵は「地理学者(海図製作者)」と天文学者しかいない
・今も毎週何万という海図を世界の代理店(これについての具体的な説明がもう一言欲しかった)に送り出しているというイギリス海軍の水路部
などなど、いずれも面白い
が、一番の発見は「アルフレッド・セイヤー・マハン」の『海上権力史論』だ
アメリカ海軍大佐のマハンは海上貿易が富の源泉と結論付け、商船隊とそれを護衛する軍艦をSeaPowerとして重視。そしてアメリカは大西洋と太平洋に接する唯一無二の地勢を有していると論じ、第一の世界と第三の世界を海洋手国への変身を力説。特に巨大な市場である中国を重視する国家戦略が採用される
そして、メイン号の謎の爆発(!?)からスペインにキューバからの撤退要求を突き付け、スペインが宣戦布告、キューバ・プエルトリコ、続いてフィリピンをも配下に(1898年)。さらにハワイも併合。運河のためパナマ地峡を有するパナマを1903年、コロンビアから独立させパナマ運河の権利を確保(1999年にパナマに運河地帯の主権返還)
…こうなると、中国市場の前に立ちはだかる日本との決戦は避けられない。結果、「1945年の沖縄戦(素晴らしき小戦争のさらに半分の2か月)で渤海・黄海・東シナ海からなる東アジアの中心海域の入り口にある沖縄「拠点」として軍事占領し・・・」という記述に納得。なるほどKeystone of Pacificとはそれか!東アジアの地図をひっくり返して見る妙な解釈より断然こっちだな
「ランス・オ・メドー」を残したヴァイキングも、もう少しインセンティブがあれば定着していたか?
・バルトロメウディアスも参加したポルトガルのカブラル船団(1500年。資金は主にイタリア商人)は喜望峰を目指すルート開拓の過程で風を求めるうちにブラジルを発見しているが、巨大な島だと誤認した。コロンブスのカリブ海到着は1942年の航海。マゼランの南米大陸確認は1519年の航海
・ポルトガルとスペイン、いずれもヴェネチアなどイタリアから海図職人や航海士を招へいし(コロンブス・アメリゴともにイタリア人)て国営(王室の管理下)で貿易をおこなっていたが、それに取って代わったのは民営(東インド会社の商人)貿易のオランダ
・カリブ海で大量に生産された「砂糖」。最初は贅沢な嗜好品→調味料となり、やがて砂糖は消費を求めてコーヒーや紅茶と出会い(逆かもあり?)、ケーキや菓子類にも入っていく。「砂糖が資本主義経済を生んだ」という見方も確かに一側面を表している
・もともとはスペイン(ハップスブルグ家)配下だったオランダが、宗主国であるスペインを圧倒した背景にはニシン漁の経験に基づく造船力と荒れた海を恐れぬ船乗りたちがいたこと
・フェルメールが残した単身の男の絵は「地理学者(海図製作者)」と天文学者しかいない
・今も毎週何万という海図を世界の代理店(これについての具体的な説明がもう一言欲しかった)に送り出しているというイギリス海軍の水路部
などなど、いずれも面白い
が、一番の発見は「アルフレッド・セイヤー・マハン」の『海上権力史論』だ
アメリカ海軍大佐のマハンは海上貿易が富の源泉と結論付け、商船隊とそれを護衛する軍艦をSeaPowerとして重視。そしてアメリカは大西洋と太平洋に接する唯一無二の地勢を有していると論じ、第一の世界と第三の世界を海洋手国への変身を力説。特に巨大な市場である中国を重視する国家戦略が採用される
そして、メイン号の謎の爆発(!?)からスペインにキューバからの撤退要求を突き付け、スペインが宣戦布告、キューバ・プエルトリコ、続いてフィリピンをも配下に(1898年)。さらにハワイも併合。運河のためパナマ地峡を有するパナマを1903年、コロンビアから独立させパナマ運河の権利を確保(1999年にパナマに運河地帯の主権返還)
…こうなると、中国市場の前に立ちはだかる日本との決戦は避けられない。結果、「1945年の沖縄戦(素晴らしき小戦争のさらに半分の2か月)で渤海・黄海・東シナ海からなる東アジアの中心海域の入り口にある沖縄「拠点」として軍事占領し・・・」という記述に納得。なるほどKeystone of Pacificとはそれか!東アジアの地図をひっくり返して見る妙な解釈より断然こっちだな
Posted by 比嘉俊次 at 10:22│Comments(1)
│社会
この記事へのコメント
農林水産省のHPでは、甘藷の伝来は東回りとなっている
http://www.maff.go.jp/j/agri_school/a_tanken/satu/01.html
しかし、この本によると
1521年4月7日マゼラン、セブ島到着
(しかしマゼランは死し、スペイン王の側近やセビーリャ大司教の縁者は粛清され、さらに帰還したエルカーノらは反乱に加担していたため航海日誌は残っていなかった)
1527年レコンキスタのサーベドラ・イ・セロンがメキシコ沿岸からミンダナオ島に到着。しかし復路が見つからずハワイで没
1542年航海士のルイ・ロペス・デ・ビリャロボスがメキシコ副王の命を受けルソンに至る
1565年フェリペ二世の命を受けたレコンキスタのミゲル・ロペス・デ・レガスピがメキシコからセブ島に至る。
同年、修道士・航海士のアンドレス・デ・ウルネーダがセブ島から黒潮に乗り日本列島東岸39度まで北上し偏西風に乗る帰路を発見。以後、1815年に至る250年に渡りアカプルコとマニラを結ぶ「マニラ・ガレオン航路」は厳重に秘匿されスペインの独占ルートに
1570年5月レガスピはイスラム教徒が支配し、中国・東南アジアとの貿易でにぎわうマニラを征服
・・・とある。陳振竜がマニラから中国に甘藷を持ち込んだのが1594年とされている。(野国総管が1605年。ただし宮古には1597に試作の記録有り)
普通に考えてやはり西回りで伝わったのではないか?(もちろん東回りも同時に
)
http://www.maff.go.jp/j/agri_school/a_tanken/satu/01.html
しかし、この本によると
1521年4月7日マゼラン、セブ島到着
(しかしマゼランは死し、スペイン王の側近やセビーリャ大司教の縁者は粛清され、さらに帰還したエルカーノらは反乱に加担していたため航海日誌は残っていなかった)
1527年レコンキスタのサーベドラ・イ・セロンがメキシコ沿岸からミンダナオ島に到着。しかし復路が見つからずハワイで没
1542年航海士のルイ・ロペス・デ・ビリャロボスがメキシコ副王の命を受けルソンに至る
1565年フェリペ二世の命を受けたレコンキスタのミゲル・ロペス・デ・レガスピがメキシコからセブ島に至る。
同年、修道士・航海士のアンドレス・デ・ウルネーダがセブ島から黒潮に乗り日本列島東岸39度まで北上し偏西風に乗る帰路を発見。以後、1815年に至る250年に渡りアカプルコとマニラを結ぶ「マニラ・ガレオン航路」は厳重に秘匿されスペインの独占ルートに
1570年5月レガスピはイスラム教徒が支配し、中国・東南アジアとの貿易でにぎわうマニラを征服
・・・とある。陳振竜がマニラから中国に甘藷を持ち込んだのが1594年とされている。(野国総管が1605年。ただし宮古には1597に試作の記録有り)
普通に考えてやはり西回りで伝わったのではないか?(もちろん東回りも同時に
)
Posted by 比嘉俊次 at 2012年12月30日 10:45