2017年05月21日
1984年 運は実力を超える 日本につけるクスリ
運は実力を超える 植島啓司
日本につけるクスリ
3月、4月の本のの中で残したいのはこの3冊
1984は20年ぶり?なぜかトランプ大統領誕生以降アメリカで売れているとの触れ込みで平積み。隣にある「高い城の男」のほうが気になったが、再挑戦
こんなに面白かったっけ?と思うぐらい一気に読んだ。成長したのか社会への理解が深まったのか
ただジョージ・オーウェルも1984年から30年後には市民自らがテレスクリーンをはるかに超えるであろうカメラとマイク、さらには位置情報を知らせる装置を重宝がって自ら持ち歩いているとは想像できなかっただろう
スノーデンが危惧したようにパノプティコンは意外と、どの社会でも受けられやすいのか?心理学なのか社会学なのか、これについての見解を知りたい
「動物農場」もいつかは・・・
「運は・・・」は「思い込みと平均回帰」など、心理学・統計学的な見地から若干の解説があるが、基本的には自らもギャンブラーという著者の随筆。実際、あとがによるとWEBコラムの再構成らしい。学術的な面では新しい感じはしない
「ランダムの強さ」については社会学の言うところの「コミットメント」の延長線上にあると思うが、「変幻自在とは単に偶然に身を任せるという意味ではない・・・少なくとも、どこかその核心に意味不明なところがないといけない」とある。これは要するに「2次元、3次元の情報戦略」といえるだろうが「時には自分でも自分の行動が理解できないという選択」とまで言っているので哲学の領域。筆者は暴君の「狂犬戦略」と名付けているが(笑)
普段はこのタイトルの本は手に取らないが、裏返しになっていたので(「裏の帯には「運は他人からもたらされる」と大書きされている)開いてみると、なぜかやたら蟹座を貶めるような記述があったり、笑わせるがとにかく痛快なまでに率直・本気、そしてまさに変幻自在を体現しているように思えて妙に納得してしまうから不思議。マルクス的痛快感。不合理ゆえに信じる、という感じ
勝って愉快に大盤振る舞い、負けたらシュンとなって仕事に精を出すというのも正解だと思う。うまいことゲームの世界を卒業できたのは幸運だった。今のAI相手のゲームだとその気になれば人間を深みに誘うことも簡単だろう。もうやってるのか?
筆者もまた「祈ってさえいれば不幸なことは起こらない」といっている。もちろん、単なるスピリチュアルの世界の話ではない
「運は実体のないものではなく、確かにそこに存在している」「勝ち運に乗る」「時を待つ」「不運の逆張り」というのも分かるが、解明されていない(ただし、「後ろに立たれるとダメ」とか「人に話してはダメ」とか、その程度で。筆者は基本的に運が強くないように思える)
「運は快楽と悦楽の境界線上に出現する」「死と生は決して表裏一体というほど強くかかわりあっているものではない」やはり数学・心理学・哲学が最後の扉か
日本につけるクスリ 安部敏樹さんは極めて社会的・人間的な取り組みをしているが、どこか数式のニオイがする。楽しみな人だと思う
この記事へのコメント
不合理ゆえに信じる
って書いてあったのは、
埴谷雄高の、
不合理ゆえに吾信ず
の、タイトルから、もじったのかなぁ⁉
って書いてあったのは、
埴谷雄高の、
不合理ゆえに吾信ず
の、タイトルから、もじったのかなぁ⁉
Posted by 久しぶり at 2017年05月22日 00:03