日本語の歴史

比嘉俊次

2012年12月22日 23:38


日本語の歴史
山口仲美

数多くある「日本語本」の一冊

言語と文化のつながり、漢字の導入、漢字の日本語化と和文、発音の変化、語彙の変化、言文一致など一通りを220Pに詰めている

それでも「漢文訓読」のときだけに用いた和語として「眼」を「ガン」音読せずに「まなこ」と訓読。日常の会話では「め」という言葉があるにも関わらず、そう読んでいたというから面白い。
確かに「すべからく○○すべし」などの漢文を読み下すときだけの言い回しはある。これは英語の関係代名詞と同じで、言語の構造・発想からきているというが
「あらかじめ」は和語では「かねて」、同じように「あるいは」→「あるは」、などは、和語よりも今では漢文音読読みがむしろ日常会話でも主流になっている
これは後に課題となる、「言文一致」を考えると面白い。文が会話に進出している

またどうして、明治時代は漢字+カタカナという文書形式が政府文書に採用されたか不思議だったが、「ひらがな」はもともと和語、そして短歌など散文のための文字。漢文の読み下しから生まれたカタカナとは生い立ちが違い、そのイメージが「格式」を感じさせるために明治や大正の言文一致運動の後も、政府の文書は「漢字+カタカナ」に

鎌倉時代に入ると「係り結び(関係助詞)」の消滅してゆく。代わって、より論理的に分の構造を明示する助詞、「~が」の登場が関係し、さらに「されば」「しかれども」など前後の分の関係を整理する接続詞の登場によって和文もいよいよ理論的な構造になってゆく。武士の時代には和歌の世界のような「情緒」より、意思の「明確さ」ということか

発音の変化、「ず」と「づ」、「じ」と「ぢ」、「お」と「を」など、近い発音同士の音の統一などにも触れているが、なぜ日本語にはこんなにも音が少ないのか?外国語でも音節は減少傾向なのか?・・・おかげで同音異義語が多すぎるし、「は」行のように音としてむしろ難しくなっているのはどうゆうことだ。ふぁ、ふぃ、ふ、ふぇ、ふぉの方が発音が簡単なはず

しかし、この本で一番面白いのは
最後の章、明治以降の「言文一致運動」の部分だ

明治から戦中にかけては「漢字+ひらがらな+口語調」という現代文と同形式から「漢字+カタカナ+文語調(≒漢文直訳)」という室町末期から変わらない形式までが混在しているのが不思議だったが、ここは「国語」の動乱期であった

中でも一等地抜けた見解を示しているのが福沢諭吉。当時の「知識人」たちが一般庶民には難解な漢文調でその素養の差を披瀝したがったのに対して、彼は『学問のススメ』などで「漢字+ひらがな」を選択。世の中に自分の思想を広める、という明確な目的意識があったからだ。当たり前のようだが、「目的を全てに優先させる」というのは意外と出来ることではない


しかしこの「学問のススメ」にしても、まだ文の調子としては「文語調」。前島密の「言文一致」の訴えに呼応し、西周による「ござる」調が登場。その後、教科書、そして読売新聞が口語調の文末を採用。しかし、やがては勢いを失い文語体に戻ってゆく
この流れを押し戻すべく明治16年に「かなのくわい」が結成され、一方18年にはローマ字を国字にすべきという「羅馬字会」も立ち上がる
話し言葉だけでなく、地の文も話し言葉にしたのは二葉亭四迷の「浮雲(明治20年)」。単語レベルでは時代を感じるが、文のリズムは現代文となんら変わらない。しかし、また幸田露伴、森鴎外が雅文体を引っさげて登場、喝采を浴びる。確かにあらゆる趣味という趣味は一般にわからない「味」があるモノが好まれる。筆者は「絢爛さ」をたたえパーティ用の装いの雅文体。これに対して口語体はカジュアルと比喩している。確かに当時の人から見れば口語文は安っぽく見えたろう。しかし下着と作業着だったTシャツ-ジーパンだってやがて洗練されファッションの主役になるからわからない
それを助けたのが尾崎紅葉の「である」調。紅葉は最初は言文一致体を罵倒していたというのが面白い。しかし文語文では地の文と会話文が上手く融合しないので「である」調を採用したと。しかし、この「である」の出所がどこなのかが記述が無い。元々あった口調なのか、それとも紅葉の発明なのか?今にしてみれば「である」は文語調そのものだが・・・

しかし、どちらにしろ文末を「ござる」「ございます」「だ」「です」「である」と変えることで表情を変えるところが日本語は面白い。こんな言語他にあるのか?まだこれからも日本語には新しい文末は出てくるのか

文末だけではなく、語彙も多い。例示されているように「やど」「旅館」「ホテル」と言葉があるが、それは指しているものが違う。1000の単語で仏語は83%、英語は80%理解できるが、日本語は60%しか理解できないという。世の中の事象は一つだし、生活のパターン共通化されてきた中でこれだけの差があるのは「私」「俺」「僕」「自分」といちいち使い分けているからだが、、「私」と「俺」は意味は同じでも、どっちでもいいとういわけじゃない。たまに英語で使うとき、一番言えないのは「YOU」。「お前」と言っているような気がするのは自分だけか?

ただ、各地の方言を聞くと、「私」を表す言葉が多くある例を知らない。なぜ共通語ではこんなに増えたのか

また西洋の言葉を最初は漢字を使い造語していたのを、途中からあきらめてカタカナで置き換え(発音はほぼ無視でローマ字をカタカナに置き換える形)日本語化、さらには「パトロールカー(そもそもPolice carでは?)」→「パトカー」、「アポイント」→「アポ」さらには「ショートパンツ」→「短パン」と改変までするので日本人にも西洋人にも初めて聞くor見て意味がわからない言葉が増えている

100年後の日本人はどんな言葉を話し、書いているのか。以外にもメディアの発達は言葉の変化を抑制したりして
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