漢字と日本人
『漢字と日本人』
高橋俊夫 文春新書198
これは勉強になった。仕事をしていて感じていた日本語の難しさ≒不条理さが納得できた
筆者の結論を先にすると、言語とは一般に音声があって文字はそれを表すものだが、日本語は逆で、文字が主で音声は従、というおそらく世界でただ一つの奇妙な言語(筆者は畸(奇)形と形容している)ということ
なぜか?それは古くは中国から、近現代は西洋から多くの言葉(=知識や概念)を輸入したから。それも直輸入ではなく、当時の知識人が加工して輸入した
古くは「漢字」とともに文字と知識が輸入されたが、そこでまず中国読みの音をそのまま使う「音読み」が生まれる
次に、漢字の「意味」だけを使い、発音は日本語の該当する言葉をそのままあてる「訓読み」が出てくる
さらに厄介なことには、日本に入ってきた時期によって、音読みでも「漢音」と「呉音(対馬音とも)」と複数の読み方が生じた
⇒今日、14日は祝日だが日曜日(日本人なら小学生でも読めるが・・・)
江戸時代までは「日本語の文字=漢字」で、かなは補助的にしか使われていなかったが、幕末から「今度は西洋に倣おう」という大方針転換の下、漢字を排除し、かなを文字の中心に据える国語改革が進めれらていく
(一足飛びにアルファベット表記というのも真剣に検討されたようだ)
だが面白いのは幕末以降、西洋から大量に入ってきた新しい言葉に片っ端から「漢字」をあてていく
これで日本語は新しい問題を含み、さらに複雑さを増していく
輸入された西洋語の翻訳の多くは「音」ではなく「意味」を漢字に置き換えることで日本語化された
⇒権利、理性、力学など
音節の種類が少なく、強弱(アクセントや声調)も単純な日本語で「音」を重視せず「意味」で漢字をあてていった弊害が同音異義語の大量生産
⇒沖縄っぽいキーワードで「カンコー」「トウショ」をパソコンで変換するだけでわかる
つまり漢字を排斥しようという運動と漢字による大量造語、相反する力が明治初期に起こり、今に至る問題の引き金となるわけだが・・・漢字の文字としての優れた機能を考えると、仕方ないかという気もする
例えば権利のrightをライトと書くと、音節の少ない日本語では電灯のlightと同じ「ライト」となり区別がつかず、同音異義語どころか文字でも意味の違いが見出せなくなる。一方を「ライト」もう一方を「ライツ」とする手もあるが、英語の学習を阻害するだろうし、少なくとも意味の概要が文字から感じられる漢字表記に勝る利便性があるとは思えない
⇒さらに、日本人はその同音異義語を排除しようとするのではなく、楽しんでいるというのか、現在も意識的に作る。最近では就職活動を縮め(これも好き)「就活」とし、「就活」が広く定着して5年ほどというコケも生えないうちから、人生の終わりを考え行動することを「終活」として一般化しつつある。言葉を考える人がいて、広めるのはマスコミだが、日本人に受け入れられていくというのが重要だ
と、ここで日本のTVにテロップが必要な理由が深く理解できる
さらに問題を複雑にしたのが戦後の国語改革。漢字を追放しようと計画し、その前段として漢字の数を大きく絞り込む。その過程で漢字が意味を超えて「集約」されてしまう
「音」ではなく「意味」をもって作られた「漢字による言葉」たち。その漢字が意味を超えて集約されるとめちゃくちゃになる・・・いや、なった
ここで夏目漱石が「あくび」を「欠伸」と書いていた理由がようやくわかった。「欠」は「かける」ではなく、中国語では「体を伸ばす」という意味。つまり「伸びる」と同じ。
「かける」は本来、「缺る」。これの略字を(も?)「欠」とした
また「関数」の「関」も、「旧字」というか「本来」の漢字は「函数」(函はハコという意味。英語で函数は「function」なので直訳ではなく、数式の(かっこ)を形容したもの?函館)。日本人は文字から意味を読み取ろうとするが、これでは漢字を見ても、関数は理解できない・・・
さらに難漢字を制限しようという基本方針があるため「哺乳類」を「ほ乳類」、「罹患」を「り患」と表記する。TVでもそうなっている。さらにTVでは「障害者」の「害」という字のイメージが悪いからと「障がい者」と表記するようになっている
「ほ乳類」「り患」「障がい者」の違和感は、「意味をもってあてた漢字」を「ひらがな」にするという本末転倒から来ている。筆者はそうならば、漢字を前提としない「和語」にすべしと提唱している。まったく同感
「
そもそも「しょうがいしゃ」などは、漢字であらわそうが、かなであらわそうが失礼な言葉で、全面改定すべき
一方で、2011年のキーワード「絆」は常用漢字外で本来は「きずな」と書かなければいけないが、その辺はTVではあいまい。途中で止まったままの漢字排斥の方針といい、それどころか少しずつ増えていく常用漢字といい、漢字をひらがなに置き換えてお茶を濁すことといい・・・何もかもが中途半端でゴチャゴチャというのが今日の日本語の表記
しかし・・・しかしだ。仕事として「読み」「書く」をする者だからこそ、この問題に苦しめられ「なぜだ」と深く考えるが、大学生のころまでは疑問に思っても深く考え、辞書まであたるのは稀だった。客観的にいかに不合理でも、それを学校で教わり、その中で生活すればそれに慣れてしまう
逆に筆者が本書で実践しているように「かな」を多用する文書は読みにくい。慣れれば、問題ないかもしれないが、これで30年以上文字を読んでいる以上、慣れるのも面倒だ。「かなであらわす」よりも「かなで表す」の方がずっと「読みやすい」というより理解が早い
話がゴチャゴチャしてきた・・・原点に返ると「書き言葉=文字」が主で「話し言葉=音声」が従という世界でもおそらく日本語だけという特殊な言語。しまいには「おほね」に「大根」の字があてられ、それが「だいこん」と読まれ「おほね」が「だいこん」になるという落語のような状況が生まれる倒錯した言語
本書は本来「漢字と日本語」いや「日本語の表記」とすべきような内容に9割がた割かれているが、「古くは中国、近現代は西洋から様々な言葉を日本語化し、そうした状況を作り出してきた日本人」、「複雑怪奇な体系となった日本語を受け入れている日本人」というところを全体として浮かび上がらせている。だから「漢字と日本人」。納得
本としてもよく出来ていて「細かなことに難癖つけて、偏屈そうな著者だな」と思っていると、「なるほど。傾聴に値する」となり、最後にタイトルも含めて出だしに戻ってピタリと納まる・・・お見事。先を急ぎそうな著者にいろいろ意見して一般に理解しやすいように一冊にまとめた編集者も偉い
さて、実はこれだけの曲折を経て、現在の日本語があることを知ると、日本語の将来が楽しみになる
たとえば、漢字の簡略化は中国の簡易体と共通化するのもいいかも。中国の簡易体は画数が少ないし、きっと本場だけに(言葉と文字が直接符合しているために)意味も踏まえた簡略化がなされているだろう
そして「漢字化」をあきらめ「カタカナ」での「日本語音訳化」が一般化した外来語をどうするか。少なくとも「ナイター」のような勝手な造語はやめて「ナイトゲーム」と直訳し、可能な限り「音節」もより原音に近づけるのが望ましい「ナイッゲイム」とか
でも「パトカー」を「ポリスカー」としても、日本人なら、さらに「ポリカー」とでも短縮化するだろう。そうなると「直接音訳」の意味は霧散し、訳が分からなくなる
どうなることか・・・日本語に限らず、人類の進歩と通信網の発達により「言葉」の発明・輸入が爆発的になって処理の限界に近づいている気もする。もちろん、一方で消えていく言葉もあるが、たとえば英語では「漢字で文字数短縮」ができないため、文中に短縮が多いが「A.B.C」が何を指すかは文脈次第で便利とは言えない(中には「DoD」=国防総省というように小文字を使うバリエーションもあるが・・・)。漢字を使う中国でも、意味で当てるにせよ音で当てるにせよ、漢字には限界があり、無理が来る
情報量の増大が続ければ、100年もしないうちに「文字の限界」というものが検討され、全く新しい表記法が生み出されるのか・・・実現すれば21世紀最大の発明となるだろうな
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