別冊NHK 100de名著
加藤 隆
信者でもないので聖書から少し離れたいが知れば知るほど面白い。またこの本の論点が核心を違わずについている。「何もしてくれない神はなぜ神でありつづけるのか」って
人間社会は普通多神教なのに、一神教が生まれ、数千年の時を経て王国も失われて廃れるどころかキリスト教、ユダヤ教へとつながり世界の宗教地図の多くを占めているというこの不思議な現実は本当に興味深い
聖書も編纂はBC5世紀からDC1世紀末まで500年ほどの時を経ている点は確かに大きい。エジプトを出て自らの王国を築き、ペルシャ・ギリシャ・ローマという異なる大帝国の文明に接し、洗練されていったことだろう
またペルシャ帝国の命により、聖書はまとめられ、帝国の権威によって確定し、ユダヤ戦争の敗北によって固定されたのであれば、歴史の作用というのは分らない
基本的には「罪ゆえに転回がおきた」ということだが、そもそも神と人に「契約」などと対等な関係は成り立つのか?と言われるとその通り。エネッセ派(敬謙派)の考えは予定説そのものではないか
一方で、カインとアベルの物語は王の隠喩、逆にバベルの塔はソロモン王の野心への風刺というのも腑に落ちる。そして「相反する立場が一つの書物に記されている。聖書では様々な立場が主張されていると理解するしかない」と著者はまとめている。
確かに。そうならカラマーゾフでゾシマから腐臭が漂ってきた理由も分かるような気がするし、逆に4つの力を統一したいという思考法も旧約聖書から見晴るかすことができる
この多様性(だからと言って「何でもあり」とは正反対)こそが「西洋文化・文明」にとって決定的なエートスなのかも知れない
一方で本書は宗教の発明と利用、本質についても他の聖書の解説書と同様に社会学的な分析も
「宗教は、神の権威を背景にした人集め(賛同者集め)の人間的行為とまずは考えるべき。宗教と言いうと組織や制度が必ず問題になるのはこのためです。宗教の行為は人間に対して効果があればいいので、神の態度や立場に沿ったものであるとは限りません」
「愛がテーマなのに、民のところに来ているのは神の代理人(預言者)でしかない。寂しい権力者が愛を要求する、しかもその手段が「権威づく」で極めて不器用である。そんな雰囲気」とは言い得て妙
AIが中韓の人類最強棋士についに勝利した。しかしこの先AIは電気羊の夢も電気ウナギの夢も見ないだろう。しかし自らの神を発明する日は来るかもしれない。人間から見て異形の神を。それこそがシンギュラリティではないか
他方「これは何者か。知識もないのに言葉を重ねて、神の経綸を暗くするとは」と神を語る者を神が一喝するという絶対性は多くの宗教にはないように思う
神を語りながらも「神に代わって」という傲慢さは厳に慎む、という段階まで達したとき、いよいよAIはヒトを超えたとハッキリと自認するだろう
他、なぜ「言葉」の力を繰り返し強調するのか(ヨハネの福音書からの浸透具合がわかる)、律法=法は厳格でありながら一方で解釈をめぐる論争があるのか、という西洋社会の根底。そして「民族宗教」でありながら、厳格な血統主義でないのかという疑問にも解が得られたように思う
とりあえず五書についての四資料説―6日間の創造の物語は司祭資料から、エデンの園の物語はヤーヴェ資料から、とあるが「四資料説」以外の説を知りたい
※写真が勝手に横倒しになり集成できない現象が再発。同じカメラ、同じパソコンなのになぜだろう