経済学の犯罪

比嘉俊次

2014年04月05日 15:43

経済学の犯罪
希少性の経済から過剰性の経済へ
佐伯啓思

市場主義経済学に支配された現代経済学(界)への批判と疑問の書

市場経済学の祖と言われるアダム・スミス、また一方のケインズも国富を国境とセットで考えていたようで(スミスは貨幣に価値を置く重商主義を批判し、労働力を重視している)、今日のグローバル経済、ワンワールドは想定していないようである
著者の言い分通りなら、スミスもケインズもつまりは各々の時代の経済状況が違うだけで、広い意味で国の充実を見据えている。これはまさに経世済民でエリート層なら当然と言えば当然の視点

しかし著者は70年代(サミュエルソンの影響が日本にも波及しきった頃?)に大学院生として経済学を学んだ際「経済理論が過度に数学的になりすぎ、あまりにテクニカルな問題に終始することに疑問を感じた」とある。同感だ。「経済人」や「ホモエコノミクス」は一見合理的に見えてバカなヤツだし、あまりに教条的。そんなヤツはいない

そこで著者は未開社会に見られる「クラ交換」「ポトラッチ」から「交換の原理」や「貨幣の付与された呪術的な意味」を読み解いてゆく
ハイライトはジョルジュ・バタイユの経済に関する観察の引用だ。「太陽が生命の維持以上の過剰なエネルギーを提供している」という点から始まる。それは「過剰」であり、それは宗教行為や破壊によって浪費されるか、蓄積し「成長」へ回すか・・・ゆえに副題にあるように経済学とは「希少性(からくる分配)」の問題ではなく「過剰性」の問題であると。そして貨幣こそは過剰性のシンボルであり、その「過剰性が欲望を生み出し、希少性を生み出す」と・・・

正直、分かるような分からないような
「お金」が成立した世界でしか生きていない自分では異次元を理解するようだ。だが「自分が何者であり、何を欲しがっているか完全に分かるものはいない」という筆者の主張は分かる。そして筆者は「だから本当のところ、欲望の対象は決して確かなモノではなく、不特定で不確定な何かといわねばならない」「他社の欲望を代入することで欲望の模倣が生じ、それは社会的な名誉や地位や虚栄をめぐる競合的な模倣をもたらす」と

そして貨幣はモノへの有用性を持っていない(ゼロ・シンボル)であるために、有用性の原理へ返されることなく、一層の過剰性へとつながる。その極端な姿が「投機」でありそれを可能にするのが「金融市場」である。ここで過剰性(貨幣)は更なる過剰性を追求し自己増殖を目的とする。つまり投機バブルへとつながる。「現代の金融市場とは過剰性が唐人もされる成長へも回らず自己を持て余している断末魔の姿と言ってもいい」と、筆者はまとめている
そして経済のグローバル化は所得格差を生み、中間層の没落を生み、やがては独裁を生み、民主主義を止める、として「成長」「効率」一本槍ではない「価値選択」の必要性を説いている

・・・正直煙に巻かれた気がしないでもない。でもこの年を振り返るだけでも日本人の中からすらお金に対する忌避感ははるかに薄らいだように見える。また最近では「保守」を自認する政治家たちが「外国人労働者の受入れ」を進めている。「国境」は実は確実に薄らいでいる。だからか経済は経世済民を離れて、純粋に競争と効率の話となりつつある。また足元の金融政策を見ても「黒田バズーカ」は確かに資金ニーズがまだ旺盛な成長途上の沖縄と五輪開催を控えた東京では極めて効果的に作用しているが、全産業的にはどうだろうか?資金は金融市場以外にどれだけ流れ出たのだろうか?

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