成長から成熟へ
成長から成熟へ
―さよなら経済大国
天野祐吉 集英社新書
タイトルにあるような内容ではなく、むしろ帯にあるような「広告から見た欲望の60年」というべき内容
「日記みたいなものです」なんて断っているが立派な社会分析
広告は何も資本主義に特有の産物ではない~電球が1000時間で切れるように設計され~「欲望の廃品化」に一役買ってきた。といいう内容
→機能の廃品化(アップグレード)・品質の廃品化(計画的減耗)・欲望の廃品化(さまざまに古くなる)
この辺り、ヘンリー・フォードとGM、そしてその後のバッチ・エンジニアリング。そしてトーマス・エジソンとJPモルガンの関係といった産業史を思い起こすと、実はまだ決着がついていない部分(というか金融が加わり地平が広がっている)があるが、大筋理解できる
DDBの「そのうち消費者の無関心という大波が、私たちが作り出しているタワゴトの山に襲いかかる。その日こそ、私たちの最後の日だ~その日、私たちは私たちの市場で死ぬ。私たちの製品棚の上で。空虚な約束を記したメッセージの中で。物音もなく、すすり泣きもされず」というのは広告に対する意見広告だが、そのままメディア自体にもあてはまる
マクルーハンの「クールなメディア」ってのも分かるな
メディア間の競争や収益に目が向いているうちはいい。だけど、新しい価値・新しい伝え方をもったメディアが出てくると、いよいよマズいってのが本質的な問題だよな
率直に言ってヒントはありきたり(というか既に聞いた話)で、答えは見えてこないんだけど。DDBの意見広告は1969年なのに!
そしてエピローグでは「日本は1位とか2位を争う野暮な国じゃなくていい。「別品」の国でありたいと思うのです」と締めている
そんなことを浮流な文体でさらさらと書かれると、2600年以上という連綿たる歴史があるのだから、近代(西洋)的なにおいが強い「保守」とか「革新」より「和風」であることが、より大切なんじゃないかと感じる
たしかに、数字や統計上で上位にいることは大切だけど、これだけ特別な歴史と文化がありながら「普通の国」になりたがる心情とは?
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