人はなぜ「神」を拝むのか?
人はなぜ「神」を拝むのか?
中村圭志
角川新書A-141 724円
一見人を食ったような内容
「奇跡」のタネあかしや、暴走しがちな「予言」について、自己啓発セミナーの本質、「願掛け」などそういったモロモロに影響されていない人間から見ると「知ってるよ」というような話を軽いタッチでつづっている前半。分かりやすいけど薄味
後半は少し宗教の細かな知識もちりばめながら(その程度)、今度は話を収束させていく。が、宗教の教理研究ではなく、宗教科学としてマクロ的な視点を深めていけばいくほど、あいまいさが浮き出てくる
形式なのか習慣なのか、道徳なのか教義なのか、カミの教えなのか人間同士の約束なのか、真理か迷信か・・・元の始まりが忘れられて単なる習慣になったもの。一見薄いように見えて習慣化した信仰や思考は引き剥がすのが難しいので、時の支配者がカミ同士の関係に整合性を持たせる教理を開発してきたからな
「おわりに」にある、まとめで「世界はずるずるつながっています」というのは納得。「信仰」「民族」そして「家族」という言葉ですら実際には定義は困難。でも、みんなそれぞれの定義に基づいて使い、それでほとんど問題は起きないだろうが、時には争いになることもあるだろう
本書の社会学的なハイライトは
「大きなジレンマ」という章以降に集中している
社会システムが構築され日常の福祉や災害からの救済を国家・行政が担うことになった。奇跡ではなしに仕事として。
しかし人間社会から病苦が根絶されたわけではない。つまり「『神仏の前には無にも等しい』とする宗教の教えの真実性は消えていないし、人間に慰安をもたらす精神的回路も断ち切れてはない」と
こうした状況の変化を受け「救い・悟り」から「癒し」へと力点が移ってきた
人はなぜ共同体の「カミ」を拝むのか?
道徳・権威・約束事(文化)を守るため・・・解釈は様々。どちらにしても「人間とはまさしく共同幻想的な存在」というまとめ
星や水と同じように元素で作られていながら物理法則に従うだけではなく、この世に「ない」様々な独自の法則を作ってきた人間。あふれる想像力ゆえに「信じるもの」「従うもの」が無ければ不安定になってしまうのか
最初は軽いタッチで書き進んできた著者も、最後は社会学的な言葉(≒興味のない人には分かるような分からないような言葉)で。でも、そうならざるえない。Be Here Now
あと、本書は軽いタッチの文書ながらも、所々に興味深いエピソードがちりばめられて、宗教学への誘い水となっている。うーん、そこは興味深いが深すぎてキケン。一生本を読んで終わってしまう
著者のHPを拝見すると、金がないのか自作と思われる手作り感あふれるHP。焼き直しでもビジネス書の方が儲かる「現実」を受け入れ、「武器としての社会類型論」のような「現世」に対する有用性をアピールタイトルと分析の書を出せばいいのに。科学技術の学者も大切だけど、社会学の学者も大切にしないと、いつまでたっても「ルール」を作る方、判定する方にはなれない。「ルール」の重要性を社会学者はもっと訴えるべきだ
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